令和元年6月定例県議会【イ. 日韓交流の拠点施設の建設について】

「日韓交流事業について」

(3)日韓交流の良き歴史的記憶の形成について

イ.  日韓交流の拠点施設の建設について

次に、21世紀の日韓交流の拠点施設の建設についての提案です。
平成2年5月、韓国の盧泰愚(のてう)大統領が来日して、歓迎の宮中晩餐会が開催された時のことです。天皇陛下は、「今後両国の相互理解が一層深まることを希望する」旨のおことばを述べられました。その後、盧泰愚大統領は答辞の挨拶で「朝鮮通信使」のことに触れ、次のように述べています。

270年前、韓国との外交にたずさわった雨森芳洲は、〈誠意と信義の交際〉を信条としたと伝えられます。かれの相手役であった朝鮮の玄徳潤は東莱(釜山で朝鮮庁舎のあったところ)に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後のわれわれの両国関係も、このような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう。

この挨拶に紹介されている雨森芳洲は、江戸時代の儒学者で対馬藩に仕え、李氏朝鮮との外交実務に携わっていた人物です。第8回と第9回の朝鮮通信使の際には接待責任者を務め、通信使からも高い信頼を得ていました。
芳洲が61歳のときに著した「交隣提醒」は、対馬藩主に上申した朝鮮外交の意見書で、世界記憶遺産に登録されている資料の一つでありますが、その中で彼は、外交の基本は相手の風俗慣習をよく理解し、お互いを尊重しあうことが肝要であると説き、「お互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」と述べ、「誠信」(誠意と信義)による外交の必要性を訴えています。
そして、62歳のとき、朝鮮と米貿易の交渉を委ねられた芳洲は、2年ほど釜山に滞在しますが、その交渉の相手方が玄徳潤(ヒョンドギュン)で、彼とはお互いに認め合い、尊敬しあう間柄でした。その玄徳潤が、釜山の古くなった朝鮮庁舎を、私財を投じて建て替え「誠信堂」と名付けました。これに深い感慨を覚えた芳洲は、そのことを讃えて「誠信堂記」と題する一文を書きあげ、その中で「交隣の道は誠信にあり、この堂に居て交隣の職に就いた者は、このことを深く思わなければならない。」と述べています。この書は誠信堂内に掲げられ、朝鮮の人びとの胸にも焼きついたと伝えられています。
盧泰愚大統領が、宮中晩餐会の挨拶で朝鮮通信使のことに触れたのは、朝鮮通信使にかかわる日韓交流の歴史に、日韓両国のよき関係発展につながる様々な物語を見出していたからではないでしょうか。そして、雨森芳洲と玄徳潤の交流を紹介されたのは、その二人にみられる「誠信」の交わりこそ、日本と韓国がよりよい関係を築いていく上において、常に立ち返るべき原点であるからだと思われます。
朝鮮通信使のユネスコ世界記憶遺産登録が決定された直後の2017年11月、本県長門市の大谷山荘で第26回日韓海峡沿岸県市道交流知事会議が開催され、日本側からは、福岡・佐賀・長崎の九州3県と山口県の、韓国側からは釜山市や全羅南道・慶州南道・済州特別自治道の知事等が出席しました。この知事会議では、「インバウンドの取組について」を共通テーマに活発な議論が展開されましたが、村岡知事は、開催県としての歓迎のあいさつの中で、大変喜ばしいニュースとして朝鮮通信使に関する資料がユネスコの世界記憶遺産に登録されることになったことに触れ、「私は今一度、日韓交流を朝鮮通信使に学んで、未来志向の交流を考えていく契機にしていくべきではないかと考えている。」「朝鮮通信使は、寄港した各地で文化、学術交流などのさまざまな分野において、対等な立場で相手を尊重した交流を進め、相互理解を深めてきた。」「私は、この『対等な立場で相手を尊重した交流』の精神を今一度、胸に刻んで、各県市道の知事・市長と地域発展への想いを共有して、日韓海峡沿岸地域、更には日韓交流の未来を切り拓いていきたい。」と述べられました。私は、この村岡知事の歓迎のあいさつの中に、朝鮮通信使による日韓交流の歴史の中で培われた教訓の核心である「誠信」の交わり、即ち誠意と信義に基づく相互尊重の交わりの精神が、しっかり引き継がれていることに感銘を覚えます。
また、この時の会議においては、朝鮮通信使の世界記憶遺産登録について関係があるところの知事、市長から発言があってますが、その中で長崎県知事が、「朝鮮通信使を支えた誠信交隣の精神は、世界に広く発信すべき国際平和友好の象徴でもある。」と述べておられることに、全く同感です。
そこでお尋ねです。私は、21世紀の日韓交流の拠点施設として「誠信堂」を、新たに釜山市に共同して建設することを、今年の日韓海峡沿岸県市道交流知事会議において村岡知事から提案し、推進していただきたいと思いますが、このことにつきご所見をお伺いいたします。